名古屋高等裁判所 昭和45年(ネ)625号 判決 1974年3月29日
控訴人 中村定吉
右訴訟代理人弁護士 山本法明
同 山本紀明
被控訴人 株式会社東海銀行
右訴訟代理人弁護士 岩越威一
同 岩越平重郎
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し、金一〇〇〇万円およびこれに対する昭和四〇年二月二一日から支払ずみまで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一・二審とも被控訴人の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は、主文同旨の判決を求めた。
当事者双方の事実上の主張および証拠の提出・援用・認否は、次のとおり付加するほか、原判決事実摘示(別表(一)ないし(七)および和議計算別表(一)、(二)を含む。ただし、別表(一)および(二)の各一枚目表一行目に「払出人」とあるのを「振出人」と、また別表(五)の期日欄一行目に「三八、一、二四」とあるのを「三七、一、二四」とそれぞれ訂正する。)と同じであるから、これを引用する。
(控訴人の主張)
一、控訴人が被控訴人に対して有していた定期預金債権については、昭和三八年一月一一日名古屋地方裁判所一宮支部において訴外日本パルプ工業株式会社を債権者として債権仮差押決定が発せられた。そして右決定正本は、(1)被控訴人豊橋駅前支店に預入れの定期預金五三〇万円についてのもの(同庁昭和三八年(ヨ)第七号)は、同年同月一四日、(2)被控訴人一宮駅前支店に預入れの定期預金三〇六一万円についてのもの(同庁同年(ヨ)第八号)は同年同月一三日、それぞれ第三債務者たる被控訴人に送達された。
これに対し、被控訴人が控訴人に対してなした割引手形買戻請求の意思表示が控訴人に到達したのは、(1)原判決添付別表(一)記載の手形については昭和三八年一月一二日、(2)同別表(二)記載の手形については同月一六日である。
しかして、被控訴人は右買戻請求権と定期預金債権とを相殺した旨主張するのであるが、割引手形の買戻請求権は買戻請求の意思表示がなされてはじめて発生するものであるから、右事実関係によれば、被控訴人は受働債権たる右定期預金債権につき仮差押決定が発せられた後に自働債権たる買戻請求権を取得したことが明らかである。したがって、民法五一一条の規定により、被控訴人のなした相殺の意思表示は効力を生じ得ないものである。
二、被控訴人は、右定期預金債権の上に質権を有していたと主張するが、否認する。控訴人は被控訴人との間で右質権の設定契約を締結したことはない。
仮に被控訴人主張の質権が設定されていたとしても、質権は、他の債権者が質権の目的物を差押えた後に質権者が取得する債権(本件においては手形の買戻請求権)までも差押債権に優先して担保するものではない。よって被控訴人の主張は失当である。
三、被控訴人は、前記仮差押決定についてはその後仮差押申請が取下げられその執行は解除されたから、右仮差押決定の効力はもはや第三者との間の権利関係に影響を与えるものではないと主張するが、仮差押執行の取消・解除による効果は、仮差押債務者において爾後目的物を自由に処分しうるに至るというにすぎず、執行取消前に生じた実体上の効果まで失効せしめるものではない。
四、控訴人が被控訴人に対して有していた定期預金債権総額三五九一万八〇〇〇円は、昭和三八年一月九日、両者の合意により普通預金債権に更改された。したがって、右同日以後は右の定期預金債権は消滅したのであるから、その後にこれを受働債権として被控訴人のなした相殺の意思表示はその対象を欠き効力を生じないものである。
(被控訴人の主張)
一、控訴人主張の仮差押決定正本が被控訴人に送達された日時および被控訴人のなした手形買戻請求の意思表示が控訴人に到達した日時が控訴人主張のとおりであることは認める。
二、被控訴人は、自己の控訴人に対する債権を担保するため、控訴人の被控訴人に対する定期預金債権に対し控訴人との間で質権設定契約をなし該定期預金証書の交付を受けるとともに、預金担保差入証に確定日付をとった。したがって、被控訴人は元来質権者として、一般債権者に優先して右定期預金債権から弁済を受けうる権能を有するものである。しかして、このような質権者の地位は質入債権が差押を受けたことにより何らの変更を生ずるものでなく、質権者は差押債権者に対しその質権をもって対抗しうるのである。すなわち、被担保債権が差押えられた後にあっても質権者は質権の効力として債権の取立をなすことができ、これに対して債務者が弁済をなした場合にはその弁済をもって差押債権者に対抗しうるのである。
本件において、被控訴人は訴外日本パルプ工業株式会社が債権者として仮差押をなした控訴人の前記定期預金債権につき第三債務者の地位にあるものであるが、同時に右債権に対しみずから質権者としての地位を有するものであるから、これにつき直接取立をなし自己の仮差押債務者に対する債権の弁済にあてることができるものであって、このような場合には民法五一一条にいう「支払ノ差止ヲ受ケルタル第三債務者」には当たらないというべきである。したがって、被控訴人が質権実行の方法として割引手形の買戻請求権を自働債権とし前記定期預金債権を受働債権としてなした相殺については、民法五一一条は適用されないというべきである。
なお、被控訴人の有する質権はいわゆる根質権であって将来の債権をも担保するものであるが、将来の債権といえども相殺の時点で具体的な債権として成立していれば、質権実行の方法としてなした相殺が有効であることに変りはない。しかして、根質権の目的たる債権につき一般債権者から仮差押がなされた場合には、質権者においてその換価手続が開始されたことを知った時から合理的な一定の期間内に取得した債権であれば、それは当該根質権によって担保されると解すべきである。そして右の一定の期間については、根抵当権に関する民法三九八条ノ二〇第一項四号を類推して二週間と解するのが相当である。
三、仮に、被控訴人主張の買戻請求権が前記定期預金債権を目的とする根質権によって担保されないとしても、被控訴人主張の仮差押決定については、名古屋地方裁判所一宮支部昭和三八年(ヨ)第七号事件については昭和三八年五月一日、同第八号事件については同月一一日に、いずれも債権者により申立が取下げられその執行は解除されており、その後においても仮差押の効力をもって第三者の権利関係に影響を与えるものと解するのは相当でない。このような場合には、民法三九八条ノ二〇第二項本文を類推して、被担保債権の範囲は確定しなかったものとみなすべきである。
四、前記定期預金債権が普通預金債権に更改された旨の控訴人の主張は否認する。
(証拠関係)<省略>。
理由
一、控訴人が昭和三七年一二月三一日支払不能(支払停止)に陥ったこと、昭和三八年一月一日現在において、控訴人が被控訴人に対し総額金一億二六四〇万六三五〇円の債務を負う一方、総額金三五九一万八〇〇〇円の債権を有していたことは、いずれも当事者間に争いがない。
二、右債権債務の内訳は、次のとおりである。
1.控訴人の被控訴人に対する債務
金一億二六四〇万六三五〇円(左記(一)ないし(三)の合計)
(一)金一億〇九九〇万六二五〇円
右は、控訴人が被控訴人から割引を受けた第三者振出の約束手形に関する債務であり、その内訳は、
(1)一宮駅前支店関係 金九一九六万八四五九円
(2)豊橋駅前支店関係 金一七九三万七七九一円
である(この点は当事者間に争いがない。ただし、その債務の性質については後に判断する。)。
(二)金三〇〇万円
右は、控訴人が被控訴人から手形貸付の方法により借受けたものである(この点は、原審証人菊田武治の証言により認められる。)。
(三)金一三五〇万〇一〇〇円
右は、原判決添付別表(以下単に別表という。)(三)記載のとおり、被控訴人が一宮駅前支店および豊橋駅前支店を除く他の支店において、第三者からの依頼により割引いた控訴人振出の約束手形に関する債務である(この点は、成立に争いのない乙第一〇号証の一、二、七および原審証人菊田武治の証言により成立の認められる乙第一〇号証の三ないし六および八ないし三〇により認めることができる。ただし、その債務の性質については後に判断する。)。
2.控訴人の被控訴人に対する債権
金三五九一万八〇〇〇円
右は定期預金債権であり、その内訳は、
(一)一宮駅前支店関係 金三〇六一万八〇〇〇円
(二)豊橋駅前支店関係 金五三〇万円
である(この点は当事者間に争いがない。)。
三、控訴人に対し、昭和三八年一月一四日訴外日本通運株式会社から、また、同年六月九日訴外中島屋材木店外六名から、それぞれ名古屋地方裁判所に破産宣告の申立がなされたこと、その後控訴人が和議申立をなし、昭和三九年六月一二日同裁判所において控訴人主張の和議条件が認可され、同年七月一五日右認可決定が確定したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
四、前記二の対立する債権債務の決済関係について、控訴人は大要次のごとく主張する。すなわち、控訴人は、被控訴人に対する債務金一億二六四〇万六三五〇円のうち、前記二1の(二)、(三)の合計金一六五〇万〇一〇〇円については、被控訴人に対する定期預金債権金三五九一万八〇〇〇円を自働債権として対当額につき本訴状をもって相殺したので、右債務は全額消滅し、また残余の債務である前記二1の(一)の金一億〇九九〇万六二五〇円については、前記和議条件に従いその六割五分である金七一四三万九〇六二円を支払えば足りるところ、控訴人は既に被控訴人に対し金一億〇九九〇万六二五〇円を支払ずみであるから、金三八四六万七一八八円の過払となり、かつ、右相殺後の残債権金一九四一万七九〇〇円を有するので、被控訴人に対し合計金五七八八万五〇八八円の支払を求めることができるというのである。
これに対して、被控訴人の主張するところは、要するに、右債権債務は本訴提起前に全て決済されて残余を生じていないというのである。
しかして、もし、被控訴人主張のごとく控訴人と被控訴人との間に対立する何らの債権債務も存しないとすれば、控訴人の主張はその前提を欠くことになり失当といわなければならない。よって、以下被控訴人の主張する決済関係につき、まず検討することとする。
五、被控訴人は、前記二1の(一)(1)の割引手形のうち別表(一)記載の三九通(金額合計二三一七万三一〇六円)については昭和三八年一月一一日、また、同(2)の割引手形のうち別表(二)記載の一三通(金額合計七二九万一六五二円)については同月一四日、それぞれ割引依頼人たる控訴人に対し買戻の請求をなし、右の買戻請求権の合計金三〇四六万四七五八円および前記二1の(二)の約束手形金債権金三〇〇万円(以上合計金三三四六万四七五八円)を自働債権とし、控訴人の被控訴人に対する前記二2の定期預金債権金三五九一万八〇〇〇円を受働債権として、対当額につき、別表(六)のとおり昭和三八年一月二〇日、同年五月七日、同年同月二二日の三回にわたり、相殺の意思表示をしたと主張するので、この点について判断する。
1.<証拠>によれば、被控訴人主張のとおり相殺の意思表示がなされたことが認められる(ただし、受働債権とされた定期預金債権は、別表(四)および(五)の合計一五口の定期預金債権の総額金三五九一万八〇〇〇円から、別表(四)の1の金一六〇万円の分を除いた残余の金三四三一万八〇〇〇円である。)。
2.そこで、被控訴人が右相殺の自働債権に供したと主張する買戻請求権の成否について判断する。
<証拠>によると、控訴人と被控訴人との間の取引約定書においては、控訴人が割引を依頼した手形の支払人その他の手形関係人につき、支払停止の事由を生じまたはその事由を生ずべき虞ありと被控訴人が認めた場合には、請求次第、控訴人において該手形を買戻すべき旨を約したこと(第四条)が認められる。
そして、控訴人が昭和三七年一二月三一日支払停止になったことは前段説示のとおりであり、成立に争いのない甲第三号証によれば、被控訴人が別表(一)記載の約束手形について昭和三八年一月一一日買戻請求の意思表示をしたことが認められ、右意思表示が同月一二日控訴人に到達したことは当事者間に争いがなく、また成立に争いのない甲第七号証によれば、被控訴人が別表(二)記載の約束手形について同年同月一四日買戻請求の意思表示をしたことが認められ、右意思表示が同月一六日控訴人に到達したことは当事者間に争いがない。したがって、被控訴人は、右の各約束手形につきいずれも右意思表示の到達をもって買戻請求権を取得したものというべきである。
この点につき、<証拠>によると、全国銀行協会連合会の採用した銀行取引約定書(ひな型)および被控訴人の銀行取引約定書においては、支払停止等一定の事由が生じた場合には何らの意思表示も要せず買戻請求権が発生する旨定められていることが認められ、右約定は有効なものと解されるが、本件弁論の全趣旨によれば、被控訴人において右取引約定書を実施したのは昭和三八年八月一日以降のことであることが明らかであるから、右の時点以前において控訴人と被控訴人との間になされた本件取引に右約定を適用することはできない。そして、控訴人と被控訴人との間においては買戻請求権の発生について前示取引約定書第四条の定めがあったにすぎないから、本件取引に関しては、被控訴人の請求の意思表示がなされてはじめて買戻請求権が発生するものと解するのが相当である。
3.以上みたところによると、被控訴人は控訴人に対し、
(一)昭和三八年一月二〇日現在において、手形貸付に基づく約束手形金債権金三〇〇万円
(二)同年五月七日現在において、別表(一)記載の割引手形の買戻請求権金二三一七万三一〇六円
(三)同年五月二二日現在において、別表(二)記載の割引手形の買戻請求権金七二九万一六五二円
の各債権を有していたことが明らかである。
そして、右の各債権について、右の各日時までの利息ないし遅延損害金の額が、少なくとも別表(六)記載のとおりであること(ただし、右(三)の七二九万一六五二円については、内金五二九万五五〇一円に対する金七万五一三一円、および内金一九九万六一五一円に対する金四万四七五六円)は、控訴人の明らかに争わないところであるから、これを自白したものとみなす。
4.次に、被控訴人が相殺の受働債権とした旨主張する定期預金債権についてみると、<証拠>によれば、被控訴人の一宮駅前支店における控訴人の定期預金債権金三〇六一万八〇〇〇円(この点は当事者間に争いがない。)のうち、金額一六〇万円の一口を除いた残余の内訳は、別表(四)の2ないし10のとおりであることが認められ、また、<証拠>によると、被控訴人の豊橋駅前支店における控訴人の定期預金債権金五三〇万円(この点は当事者間に争いがない。)の内訳は、別表(五)のとおりであることが認められる(ただし、同表4の証書番号七〇三六のものは、乙第一六号証の一の証書番号七二三二のものが同号証の二の担保預金継続依頼書により継続されたもの、また同表5の証書番号七八二九のものは、乙第一七号証の一の証書番号第九七八八のものが同号証の二の担保預金継続依頼書により継続されたものである。)。
そして、右の各定期預金債権に対する被控訴人主張の相殺の日までの利息が少なくとも別表(六)記載のとおりであることは、控訴人の明らかに争わないところであるから、これを自白したものとみなす。
なお、控訴人は、右定期預金債権は昭和三八年一月九日普通預金債権に更改されたと主張するが、右主張に符合する当審における控訴人本人尋問の結果は、当審証人菊田武治の証書(第一回)に対比しにわかに措信できず、甲第一五号証の記載もこれを認めるに十分でなく、ほかに右主張事実を証するに足りる証拠はない。
5.そこで、被控訴人主張の相殺の成否について判断する。
(一)<証拠>によると、被控訴人と控訴人との間において、後者の前者に対する手形上の諸債務、当座勘定繰越債務、その他すべての債務を担保するため、別表(四)の2ないし10の各定期預金債権につき同表期日欄記載の各日時に、また、別表(五)の1の定期預金債権につき昭和三七年一月二四日、同表2および3の各定期預金につきいずれも昭和三七年一〇月二七日、同表4の定期預金債権につき昭和三六年九月一九日、同表5の定期預金債権につき昭和三六年一二月二八日(右4および5については前記継続前の定期預金債権について)、確定日付ある預金担保差入証をもってそれぞれ質権を設定する旨の契約をなし、被控訴人は各定期預金証書の交付を受けたことが認められる。
したがって、被控訴人は、控訴人との間の取引により生ずることあるべきすべての債権を担保するため右定期預金債権に対し質権(根質権)を有するものである。そうすると、被控訴人は右定期預金債権につき破産手続によらず質権を実行することができるわけである。そして、質権者は債権に対する質権の実行方法として債権を直接取立てることもできるのであるから、これを取立てる手段として自己の債務と相殺することは何ら差支えない。また、被控訴人が控訴人に対して有する前記割引手形の買戻請求権は、右両者間の取引によって生じたものであることが明らかであるから、前記質権設定契約に基づく根質権により担保されうるものである。したがって、別表(六)のとおり被控訴人のなした相殺は有効である。
(二)控訴人は、控訴人と被控訴人との間の金融取引契約は、被控訴人が昭和三八年一月一一日および同月一四日になした買戻の請求により既に解除されており、また控訴人はその以前に他の債権者から定期預金債権の仮差押を受けているから右取引契約は解体しており、被控訴人の別除権は消滅したと主張する。
しかしながら、控訴人と被控訴人との間の取引契約上、被控訴人において一定の場合に割引手形の買戻請求をなしうる旨定められていたこと、および、右の定めによって被控訴人が前記の各日時に買戻の請求をしたことは、既に説示したとおりであるが、右の請求がなされたことにより取引契約が解除されたとすべき根拠は存しない。もっとも、割引手形の買戻請求権の性質については、手形の売買契約を解除したことにより生ずる権利であるとする見解も存するところではあるが、右の見解によっても、解除されるのは手形割引契約(売買契約)であって取引契約全体ではないから、別除権が消滅することはあり得ない。また、第三者から差押を受けたことにより被差押債権上の質権が消滅すると解すべきいわれも全く存しない。
したがって、控訴人の前記主張は採用できない。
(三)控訴人は、前記定期預金債権については、昭和三八年一月一一日名古屋地方裁判所一宮支部昭和三八年(ヨ)第七号および第八号債権仮差押事件をもって仮差押がなされたところ、被控訴人主張の買戻請求権はその後に発生したものであるから、民法五一一条により、これをもって右定期預金債権と相殺することは許されないと主張する。
しかして、右の各債権仮差押事件において第三債務者である被控訴人に対して仮差押決定正本が送達されたのが、昭和三八年(ヨ)第七号事件については昭和三八年一月一四日、同第八号事件については同年同月一三日であったことは当事者間に争いなく、他方、被控訴人の買戻請求の意思表示が控訴人に到達したのが、別表(一)記載の約束手形については同年一月一二日、別表(二)記載の約束手形については同年同月一六日であることも当事者間に争いがない。
右事実によれば、被控訴人主張の買戻請求権のうち、別表(一)記載の約束手形についてのものは、前記各仮差押命令が被控訴人に送達されて差押の効力が生ずる以前に発生したことが明らかであるから、被控訴人のなした相殺は何ら民法五一一条による制限に抵触するものではない。
一方、別表(二)記載の約束手形についての買戻請求権は定期預金債権に対する仮差押がなされた後に生じたものであるが、右買戻請求権は前記のとおり被控訴人が控訴人の定期預金債権に対して有する質権によって担保されるものであるから、被控訴人は一般債権者に優先して右定期預金債権から弁済を受ける権利を有するものである(なお、本件においては定期預金契約の債務者たる被控訴人が同時に右預金債権に対する質権者となったものであるから、質権の対抗要件としての第三債務者に対する通知およびその承諾等は前記質権設定契約に包含されているものと解され、また前記担保差入証につき確定日付のあることは前記認定のとおりである。)。したがって、右の買戻請求権は仮差押の後に生じたものであるが、根質権の効力として仮差押債権者に対抗しうるものとなり、この場合民法五一一条は適用されないものというべきである。
ちなみに、本件の場合、右買戻請求権の発生原因たる手形割引という法律関係は仮差押の前に既に存したものであり、債権者たる被控訴人としては、一定の事由により買戻請求権を行使しうることとなった場合には定期預金と相殺しうるものとの期待を有していたものとみられるから、このような場合には相殺につき民法五一一条による制限はないものと解することもできるのである。
よって、控訴人の前示主張は採用できない。
(四)控訴人は、第三者振出の約束手形については被控訴人は右第三者に対して債権を有するのであるから、控訴人の被控訴人に対する債権と相殺することはできないと主張する。しかしながら、既にみたように、被控訴人が控訴人の定期預金債権との相殺に供した約束手形の買戻請求権は、被控訴人と控訴人との間の取引契約上の特約に基づき生じたものであり、控訴人はこれにより被控訴人に対し債務を負うものである。被控訴人は、これとは別に手形の所持人として振出人に対し手形上の権利を有するものであるが、これがため右買戻請求権の行使が妨げられるものではない。よって、この点に関する控訴人の主張も理由がない。
(五)なお、前顕乙第一・二号証によれば、控訴人と被控訴人との間の取引契約においては、被控訴人のなす相殺に関して手形の呈示または返還を要しないとすることにつき控訴人は異論がない旨合意した事実が認められ、これによれば、控訴人は、被控訴人のなす手形の買戻請求に対し自己の債務の履行と引換に当該手形の交付を求める同時履行の抗弁権を予め放棄したものということができる。したがって、本件において被控訴人が前記相殺の意思表示をなすにあたって当該手形を呈示していないことは明らかではあるが、これにより右相殺の効力が左右されるものではない。
(六)さらに付言するに、被控訴人が、控訴人の支払停止の事実のあった後にこれを知りつつ前記手形の買戻請求の意思表示をしたものであることは明らかであるが、右買戻請求権は、破産法一〇四条四号但書にいう「支払ノ停止若ハ破産ノ申立アリタルコトヲ知リタル時ヨリ前ニ生ジタル原因」に基づき取得したものと解されるから、被控訴人のなした本件相殺は何ら同条同号本文の制限に触れるものではないのである。
六、次に、被控訴人は、第三者振出の約束手形を控訴人の依頼により割引いた分に関し、一宮駅前支店関係三六九通のうち別表(一)記載の三九通を除く残余の三三〇通(金額六八七九万五三五三円)および豊橋駅前支店関係五七通のうち別表(二)記載の一三通を除く残余の四四通(金額一〇六四万六一三九円)については、いずれも支払期日に振出人から弁済がなされたと主張し、右振出人による弁済の事実は当事者間に争いがない(控訴人は、三四三通の約束手形について振出人による弁済の事実を認めるのであるが、その本意は、右三三〇通および四四通の合計の三七四通について認める趣旨であると解される。)。しかして、右のごとき振出人による支払は本件和議条件と無関係になしうることは当然である。
これに対し、控訴人は、被控訴人は昭和三八年一月一一日手形取引契約を解除したので、その時点から割引手形は取立委任の形式で被控訴人に委託されたものであり、振出人のなした前記の支払は控訴人の支払と同一であると主張する。
しかしながら、被控訴人は、一方において手形割引の依頼人に対して割引手形の買戻を請求しうるとともに、他方において、買戻がなされるまでは、手形の所持人として振出人に対し手形金の支払を求めることもできるのであり、右の二種の請求権は別個独立の権利と考えられる。しかして、被控訴人としては、手形の所持人として手形上の権利を行使し、その結果振出人より前記の弁済を受けたのである(右弁済によって被控訴人の控訴人に対する買戻請求権も消滅した。)。控訴人としては、手形を買戻さないかぎり手形上の権利を行使し得ないわけであるから、被控訴人に対し割引手形の取立委任をなしうる根拠は存せず、したがって、右振出人の支払をもって控訴人の被控訴人に対する支払とみなすことのできないことはもちろんである。
七、被控訴人は、さらに、被控訴人の一宮駅前支店および豊橋駅前支店以外のいわゆる貸店関係の控訴人振出の約束手形(金額合計一三五〇万〇一〇〇円)(別表(三))に関し、(1)別表(三)記載の23、24以外の二二通は割引依頼人から買戻され、(2)同表23の手形(金額二万六七〇〇円)のうち金一万四二〇〇円については、割引依頼人山口正より内入弁済がなされ、(3)右23の手形金の残金一万二五〇〇円および同表24の手形金一三万七〇〇〇円、ならびにこれらに対する利息金の合計金一五万八九〇〇円に対しては、訴外金桝林産株式会社から弁済がなされた旨主張する。
そして、右(1)の点(ただし、11については金二〇〇万八七五三円)については、成立に争いのない乙第一〇号証の一、二、七および原審証人菊田武治の証言により成立の認められる乙第一〇号証の三ないし六、八ないし二一、二八ないし三〇により、また、(2)および(3)の点(ただし、弁済金額の合計は金一五万八九〇四円)については、右菊田証人の証言により成立の認められる乙第一〇号証の二二ないし二七に弁論の全趣旨を総合してそれぞれこれを認めることができる。しかして、右のごとき支払がいずれも和議条件と無関係になされうることは言をまたぬところである。
八、なお、<証拠>によれば、前記相殺後の預金残金二七八万四四一六円については、控訴人の依頼により控訴人持参の金七八万二六九〇円とともに、昭和三九年一一月二日別表(七)記載の者に対し、それぞれ同表記載のように振込み支払われたことが認められる。
九、以上にみたとおり、控訴人と被控訴人との間の債権債務は、本訴提起以前において全て決済されたことが明らかである。したがって、控訴人の本訴請求はその前提を欠くことになり、失当として棄却を免れない。
右と同旨に出た原判決は相当である。
よって、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 宮本聖司 裁判長裁判官山田正武は転任のため裁判官新村正人は差支えのため署名捺印することができない。裁判官 宮本聖司)